[保育士試験]「保育原理」に出題される幼児教育・保育界の偉人〈日本人篇〉

明治以降、日本の保育や幼児教育は、外国人からの影響を受けながら芽吹き、多くの偉人を輩出しました。

「保育原理」の試験でよく問われる、そんな日本の幼児教育界の礎を築いた日本人の先人たちを紹介します。

赤沢鐘美(あかざわ あつとみ)1864-1937

明治-昭和時代前期の教育者。越後(新潟県)出身。

赤沢鐘美は、新潟市に貧しい児童らのために自ら開いた私塾「新潟静修学校」の教師だった。

ところが、児童が世話をせねばならならない幼い弟妹や奉公先の子らが教室の外に列をなして授業が終わるのを待っているではないか。

そんな状況を見かねた妻のナカ(仲子)が、幼児らの世話をし、食事を与え、足袋もこしらえてやったりした。

それが赤沢の託児所の始まりだった。

夫妻は1890年、新潟静修学校に保育施設を併設した。

1908年に「守孤扶独(しゅこふどく)幼稚児保護会」に改称(現・赤沢保育園)。これが日本初の保育所となった。

〈わが国で最初の託児所をつくり、貧しい子どもたちを幼い兄弟の子守りから解放し、勉学の道を開いた〉と、赤沢鐘美のことが、2018年の保育士試験に出題されている。

[過去問]平成31年前期筆記試験に出題

〈赤沢鍾美によって設立された私塾で、託児施設が設置されていた。〉→新潟静修学校

東基吉(ひがし もときち)1872 – 1958

明治-昭和時代前期の教育者。

日本で最初の体系的保育論の書「幼稚園教育法」を上梓。岩手県師範学校教諭・附属小学校主事から1900年に東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)助教授に転じ、幼稚園教育研究に従事した。

1903年に教授に昇進。

フレーベルの影響が濃厚で、『フレーベル氏教育論』『教育童話 子供の楽園』などの著書もがある。

妻の東くめ は、童謡作詞家(1877〜1969)、娘の東貞はピアニスト(1903〜80)

城戸幡太郎(きど まんたろう)1893年 – 1985

心理学者、教育学者、北海道大学名誉教授。保育問題研究会会長。

社会中心主義を提唱し、子どもをその子の生きている社会との関りから捉えようとした。生活力のある子供の育成を目指した。

[過去問]令和元年筆記試験に出題

次の文章の作者を問う問題。

〈幼稚園や保育所もかかる意味で、もとより学校であるが、それが子どもの生活環境を改造していくための教育的計画であるからには、何よりもまず子どもの自然である利己的生活を、共同的生活へ指導していく任務を負わねばならない。
したがって幼稚園、保育所の保育案は「社会協力」ということを指導原理として作製されなければならないもので、幼稚園と保育所との教育はこの原理によって統一されるのである。〉

答え→城戸幡太郎

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倉橋惚三(くらはし そうぞう)1882 – 1955

大正時代から昭和時代にかけての日本の教育者。

「幼稚園保育法眞諦」の著者。子ども好きで、第一高等学校時代、暇さえあれば東京女子高等師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学)に通って子どもたちと遊ぶことを楽しみにしていたという。

彼は児童保護を「消極的」呼称として退け、「積極的」な児童愛護を提唱。社会問題対策として政府、自治体が取り組むべきであるとした。また個人的な社会事業は「人道的篤志」に基づいて行うべきだと主張した。

その後、日本幼稚園教会の主幹となり、機関誌『婦人と子ども』(後に『幼児と教育』と改称)の編集にかかわりながら活動を続け、1917年、東京女子高等師範学校教授に就任。

東京女高師附属幼稚園の主事を長年務め、形式化した明治以来のフレーベル主義の改革と幼児教育の発展に尽くした。

戦後、教育刷新委員会委員を経て、1948年に日本保育学会を創設。

恩物中心のフレーベル主義を批判し、児童中心の自然の中で行う保育を生涯に渡って強調した。

『幼稚園雑草』『幼稚園 保育法真諦』などの著書も。

自ら育つものを育たせようとする心
それが育ての心である
世の中にこんな楽しい心があろうか

(倉橋惚三墓碑より)

[過去問]令和2年後期筆記試験に出題

ある文章(著作権の問題で掲載できず)を掲載しその文章を書いた者を5人の中から選ぶ問題→倉橋惣三

さらにその著者と関連が深い事項を選ぶ問題→誘導保育

[過去問]平成29年前期筆記試験に出題

〈静岡県出身の心理学者で、児童文化に深い理解と関心を示し、1922(大正 11)年に
創刊された『コドモノクニ』では編集顧問をつとめ『キンダーブック』の 1927(昭和2)
年の創刊と編集にも関わった。〉→倉橋惣三

関信三(せき しんぞう)1843-1880

日本の教育者、浄土真宗僧侶(法名は猶龍)。

東本願寺の命により、東本願寺の大谷光瑩(現如)上人の随行員としてイギリスに留学。その後、政府のキリスト教解禁のため帰国、東京女子師範学校の英語教師となる。

欧州滞在中に見聞したフレーベル教育を活かし、1876年、文部大輔(大臣)田中不二麿、東京女子師範学校摂理の中村正直による抜擢で、日本初の幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)を創立し、その初代監事(園長)となり、主任保母は、松野クララが務めた。

欧米の幼稚園創立に関する手引書の翻訳で、幼稚園教育の日本への導入に大きく貢献した。

監事在職の3年間に、幼稚園の保育内容の実質的で、実践的な手引書を作成した。

36歳という若さで夭逝。彼の墓は幼稚園の生みの親のフレーベルの墓を模して、四角い墓石の上に円柱を置いた形になっている。

[過去問]平成30年前期筆記試験に出題

A〜Cに当てはまる語句を選ぶ問題。

〈ドイツの教育者である( A )は、世界で最初の幼稚園(Kindergarten)の創設者で ある。主著である『人間の教育』(1826 年)の中で、幼児期においては( B )がこの 時期の子どもの最も美しい表れだと主張した。彼は、幼児のための遊具(Gabe)を考案 したが、これは、明治時代になって( C )の編集した『幼稚園法二十遊嬉』等によって わが国に紹介された。〉

答えは、Aがフレーベル(Fröbel, F.W.)、Bが遊び、Cが関信三

土川五郎(つちかわ ごろう)1871-1947

大正期に、幼児にふさわしい遊戯を創作。リズミカルな歌曲に動作を振り付けた「律動遊戯」「表情遊戯」を発表。

著書に、『大正・昭和保育文献集』(共著)、『表情遊戯 ; 律動遊戯』など。

[過去問]平成28年後期筆記試験に出題

〈大正期に、リズミカルな歌曲に動作を振り付けた「律動遊戯」を創作し、発表した。〉→土川五郎

豊田芙雄(とよだ ふゆ)1845-1941

女子教育家。女子高等教育の先駆者、日本の幼稚園教育の開拓者などともいわれ、日本の女子教育界発展に大きく貢献した。

1875年、新設された東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の読書教員となり、翌明治9年(1876年)に四等訓導兼副舎監となった。同年10月、同附属幼稚園が開設されるとその保母に任命され、日本の保母第1号(官立幼稚園の保母第1号)となった。

同園には松野クララがおり、松野からドイツの幼稚園について学んだ。

1879年、県令・岩村通俊の招きで鹿児島県に渡り、県立幼稚園の創設に尽力。鹿児島では西郷隆盛が尊敬した藤田東湖の姪として歓迎され、「女神様」と呼ばれた。

1887年、水戸徳川侯爵夫妻に同行してヨーロッパに渡り、文部省から依託されて女子教育を学ぶ。

1922年に水戸高等女学校を退職すると、私立好文女学校講師や大成女学校(現在の大成女子高等学校)校長などを務めた。「女が女の特性を発揮させ、良妻賢母になるために高等教育が必要」であると説いて、日本の女子高等教育の開拓・発展に大きく貢献した。

藤田東湖の姪、豊田香窓の妻。幼名は冬子。のち芙雄と改めたが、後年は芙雄子と署名することが多かった。

著書に『恩物大意』『女子家庭訓』(編著)。

[過去問]平成31年前期筆記試験に出題

〈豊田芙雄は、日本初の保姆となり、松野クララとともにフレーベル主義の保育を展開した。〉→東京女子師範学校附属幼稚園

野口幽香(のぐち ゆか)1866-1950

日本の幼児教育者、社会事業家。本名は野口 ゆか。

1890年、東京師範学校女子部(現・お茶の水女子大学)を卒業。同年、東京女子高等師範学校と改称した母校の附属幼稚園に助教諭として着任。

1894年、華族女学校付属幼稚園が設置された際、幽香が選出され同園に異動となったが、通勤の途中、道端で地面に字を書いて遊んでいる子供の姿を見るうち、多数の付き添いに命令する付属幼稚園の園児との間に落差を感じ、「貧しい子供たちにも保育を」と考えるようになった。

1900年(明治33年)、森島峰と共に貧困層に向けた双葉幼稚園(1916年に双葉保育園に名称変更)を開設。

フレーベル教育を実施し、現在の保育園の原型を作った。

[過去問]令和3年前期筆記試験に出題

 〈野口幽香と森島峰が寄付を募って、1900(明治33)年に設立された。〉→双葉幼稚園

[過去問]平成31年前期筆記試験に出題

〈野口幽香と森島峰(美根)が寄付を募り、1900 年に設立した施設で、貧しい家庭の子どもたちを対象にフレーベルの精神を基本とする保育を行った。〉→二葉幼稚園

[過去問]平成30年後期筆記試験に出題

〈華族女学校附属幼稚園に勤めていたが、貧しい子どもたちを対象とする幼児教育の必要性を感 じ、二葉幼稚園を設立した。〉→野口幽香

[過去問]平成28年後期筆記試験に出題

〈東京女子師範学校を卒業後、同校附属幼稚園の保母となり、後に二葉幼稚園を創設して、フレーベルの精神を基本とする保育を行った。〉→野口幽香

橋詰良一(はしづめ りょういち)1871 – 1934

大阪毎日新聞社の事業部長であった橋詰良一は、1922年、大阪で「家なき幼稚園」を設立。園舎を造らずに戸外で保育を行うのが特徴で、大自然の中で子供を遊ばせる露天保育を推奨する幼児教育運動を行った。

屋外保育の理念に基づく外国の幼稚園「ハウスレス・キンダー・ガーデン」を手本に大正10年に「家なき幼稚園」の計画が構想され、「家という建物の枠から開放して、自然の中で育てるのが何よりの幸福である」という計画のもと、園舎を持たず川沿いの自然に恵まれた「家なき幼稚園」が誕生しました。

引用元:自然幼稚園

[過去問]令和3年前期筆記試験に出題

〈園舎を持たない幼稚園で、1922(大正11)年に橋詰良一によってはじめられた。〉→家なき幼稚園

[過去問]平成31年前期筆記試験に出題

〈橋詰良一は、露天保育を提唱し、自然の中で子どもたちを自由に遊ばせるために、自動車で郊外に連れ出して保育を行った。〉→家なき幼稚園

[過去問]平成28年後期筆記試験に出題

〈1922(大正 11)年、園舎を持たず、野外で行う保育を特徴とした、家なき幼稚園を創設した。〉→橋詰良一

[過去問]平成29年後期筆記試験に出題

〈わが国の保育の歴史において、大正時代は海外の思想も含めて様々な保育が紹介され、 実践された時代であった。たとえば、河野清丸らによって( A )の教育法や教具が紹 介された。大阪では、( B )が「家なき幼稚園」と称する園舎を持たない形態で野外 保育を始めたり、( C )がリトミック運動を始めたりしたのもこの頃である。このよ うな新しい時代の自由主義的な機運の中で、大正 15 年には( D )が公布された。〉

答え→A=モンテッソーリ(Montessori, M.) B=橋詰良一 C=小林宗作 D=幼稚園令

松野クララ(まつの くらら)1853 – 1941

東京女子師範学校附属幼稚園の園児たちが歌いながら遊ぶ開園当時の様子を描いたもの。
主任保姆の松野クララ(洋装)、および保姆豊田芙雄近藤浜の姿も見える。
幼稚鳩巣戯劇之圖(複製・69.3×101.0㎝、原画は大阪市立愛珠幼稚園所蔵)

サイズ:
69.3×101.0㎝

フリードリヒ・フレーベルが創立した保母学校に学んだドイツ・ベルリン出身の幼児教育家。

独語名は、Clara Louise Zitelmann(クララ・チーテルマン)。

1876年に来日し、ドイツで知り合った松野礀(まつの はざま、林学者、農商務省官吏)と結婚(日本人男性とドイツ人女性の国際結婚の第1号)。

以後、日本における近代幼児教育の基盤整備に取り組み、1876年に設立された東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)において、初代監事(園長)関信三の下、最初の主席保母となった。

豊田芙雄(ふゆ)、近藤濱を保母として、ドイツの養成所で学んだフレーベルの恩物の使い方や遊戯、実際的な保育の技法を通じてフレーベルの理論や保育内容の教授法を教えた。

また、東京女子師範学校の保母練習科の生徒たちにも教授し、当時は珍しかったピアノを弾いて一緒に子どもたちと遊戯を楽しんだ。また、1878年設置の同校保母練習科で保育法も教授した。

宮内省式部職の命により、1879年から雅楽部の小篠秀一、芝葛鎮、東儀季芳、奥好義に、1884年から辻則承に、ピアノを教えた。1881年以後は、華族女学校でピアノを指導した。

なお、夫が死去した翌年の1909年、千葉県清澄山周辺にある東京大学千葉演習林の外国樹種植栽一帯を「松野記念林」とし、クララの主導により外国樹種の記念植林が行われた。

その後ドイツに帰国、1941年、ベルリンにおいて88歳で逝去。

2011年11月、青山霊園にあるクララの夫と娘・文(ふみ、Frida Fumi)の墓所のそばに、日独交流150周年の記念事業の一環としてクララの顕彰碑が建立された。

[過去問]平成30年後期筆記試験に出題

〈東京女子師範学校附属幼稚園の創設時の主任保姆として保姆たちの指導にあたり、日本の幼稚園
教育の基礎を築いた。〉→松野クララ

和田実(わだ みのる)1876~1954

「幼児教育法」の著者。自由で活発な遊びこそ幼児期の教育の真髄であると説いた。以降、多くの幼児教育者が遊びに着目するきっかけを作った。

幼児教育の基本原理、つまりルソー、ペスタロッチ、フレーベルと受け継がれてきた「自然主義教育」を基本において明治41年に「幼児教育法」を著した。

幼児教育を科学的に教育学の体系に位置づけて論じ、「誘導保育」の理論を初めて公にした。

彼は、幼児教育を科学的に論じようと「幼児教育」という言葉を日本で初めて使った

自分の理想とする幼児教育を実践するために大正4年に「目白幼稚園」を開園し、昭和5年には、よりよい保育者の養成を目指して「和田実学園」を設立した。

参考元:Wikipedia

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